音遊びの会ドキュメンタリー映画『音の行方』伸びやかに音楽を続け、その音楽性は驚きと感嘆、時には笑いをもって迎えられる音遊びの会。見るものの目を釘付けにする彼らの豊かな表現は即興音楽の概念を塗り替える。音楽の歴史に残るドキュメンタリー。[プロデューサー]京田光広[音楽]音遊びの会[助成]文化庁 ARTS for the future![映画『OTOASOBI』製作委員会]野田亮 / 森本アリ /  飯山ゆい / 大友良英 / 大谷燠 / やなぎみわ / 京田光広[監督・撮影・編集]野田亮[音遊びの

Comment

 プロの演奏家であろうが障害者であろうが、大人だろうが子どもだろうが、完全にイコール。常にその場で起こる新しい出来事を当たり前のように受け入れ楽しんでいる。これほど理想的な音楽のあり方を他に見たことがない。

- 大友良英(音楽家)

 彼らの“音遊び” は予測不能で、私は「瞬間ごと、適切に意味のある言葉を、また同時にその意味が決して音楽の邪魔をしない言葉や沈黙を、それもふさわしい態度と声で発さなければならない」。彼らが相手であればこそ、私は心地よい緊張の中でそれが出来る。

- いとうせいこう(音遊びの会|最新加入メンバー)

 旅に出ると、いつもすぐに「帰り」のことを考えてしまう。帰りのことを考えない旅、そんな音楽があるとすれば。びっくりするような瞬間を繋いでみたら光のような映画になった。

- 安田謙一(ロック漫筆)

 ドキュメンタリー映画「音の行方」を鑑賞。目は、見逃さず、耳は、聴き逃さず、最後まで魅了されました。ぼくも、目指すところのパラダイスを確信できた気がします。メンバーの皆さん、お元気で、ご活躍を・・・。

- 鈴木昭男 (アーティスト)

 うらやましく仕方なかった。特にトロンボーンが。喉から食道、胃、腸とつづく管をひっくり返して外に飛び出させたような楽器。体とひとつながりになった金属からは肉の音がする。 なぜ音楽家は飽きずに同じ曲を演奏できるのか、むかしから不思議だったのだ。でもこれを見てわかった。楽器という身体拡張マシンを手に入れたら、そりゃ楽しいだろう。自分の体から出る音を聞いているだけで、そりゃ楽しいだろう。そんな遊びを発見した人たちに憧れるばかりだった。
 社会的包摂とよく言われるけれど、包み込まれたのは私のほうであり、表現というものについて、もう少しの勇気を持つように支援された2時間だった。

- 白石正明(「シリーズ ケアをひらく」編集者)

 音を楽しむ前に音を遊ぶ。そこからやがて音楽という奇跡が立ち上がる。二度と同じものはなく、いつ始まりいつ終わるのかもわからない。彼らのその「音楽」が生まれる瞬間をじっと待つように、この映画はとても丁寧に編まれている。そして、即興音楽とは何か?コミュニケーションとは何か? この作品を通じて湧き上がるそうしたいくつもの問いを、唯一無二の爆音(あるいは静寂)が吹き飛ばす。

‐ 和久田善彦(編集者)

 スクラップ&ビルドでいえば「スクラップ」なイメージかもしれないけど、じつは「ビルド」がとてつもなくでかい。そして、音遊びの会ってつくづく音楽の約束事から自由だと感じつつ、もっと根本的な約束のことを思い出す。すべての人生においていちばん大事なあの約束、「また遊ぼうね」を。

- 松永良平(リズム&ペンシル)

 音にまつわる出来事を描くこの映画が掘り起こすのは、人が何かを行うときの「意志」にまつわるバリエーション。明らかに気になるのに、気配にとどまれるということ。突飛な気もするけど、確かに日常に転がっていそうなこと。強くもなく弱くもない、明確でないけど曖昧でもない。それってなんだかすごい、とてもとてもかっこいいことに思えるのだ。

-アサダワタル(文化活動家)

 この世界には、内的規範を基に生きる人と外的規範を基に生きる人がいる。多くの人は時と場合によってその配分を変化させながら、硬い社会に適応する。純粋に内的規範に従って生きている人たちは、社会への適応は難しいが、柔らかくしなやかな自由の世界を生きている。内的規範を生きる人たちだけで集うと場はカオスになるが、それぞれが音楽(音を楽しむ)を介して井戸を掘ることで、地下水により「いのち」がつながる。なぜなら、内的規範とは「いのち」の法則そのものだからだ。「音遊びの会」が示す世界は、そうした新しい場の可能性に違いない。そこは「いのち」が純粋に響きあう未来の空間だ。

- 稲葉俊郎(医師・軽井沢病院長)

 「音」が「音楽」になる瞬間が何度も現れる。「音楽」が「音」に帰っていく瞬間も何度も現れる。『音の行方』の言葉通り、その行方を一緒になって追いかけるうちに、わたし自身にある「音楽」のイメージの狭苦しさに気づかされました。ルールをつくることの喜びも、ルールを壊すことも喜びも、確かな手触りをもって感じられる、清々しい作品です。

- 高森順子(社会心理学者)

 エンドロール以外、本編には名前のクレジットは一切出てこない。健常者であろうと障害者であろうと、有名であろうと無名であろうと、その区別はない。劇中『見上げてごらん夜の星を』が歌われる。「僕らのように名もない星がささやかな幸せを祈っている」どんな星であろうと光を放つという事実は変わりがないように、人間ひとりひとりその在り方には何の差異はない。地球から見える星々は現在存在していなくとも、その輝きを結んで星座を描き、具象の神話が動き出す。同様に身体の動作によって生まれた音々は、さまざまな関係性が生まれ、そこには地上の抽象の物語が立ち上がり、我々鑑賞者の心の音に共鳴する。

- ヴィヴィアン佐藤(映画評論家)

 映画、物凄く良かった!いろんな映画を見てって言われるし、どれもいいなと頭で思うことは多いんだけれど、これはちゃんと心が動きました。それで、感動した、ってことどう言えば伝わるんだろうと思ったんだけど、いい言葉が思い浮かばない。「今が楽しい」っていう神状態を、最近ますます大事にしたいと思っている。彼らは映画の中でその追求をしているように見えました。しかも、「いま楽しみたい」っていう欲望に素直になっている人たちってやっぱり、はたで眺めていても楽しいものだと思いました。バンドに参加しなくても楽しいし、もしいつかわたしも参加できるんだったらきっともっと楽しいだろうなぁって、想像して楽しくなれました。

- 長島有里枝(写真家)

 音遊びの会が結成された頃に幸運にも記録をさせていただき、いつしか17年が経っていた。映画『音の行方』では、まったく変わっていないように見える人もいるけれど、当時幼かった子も成人していて、音楽家も貫禄が増している。時の流れと共に、メンバーのあいだの信頼もおのずと深まっているはずだ。だが、即興セッションには1ミリも予定調和を感じない。当時と同じ緊張感に満ちている。緊張はときに笑いに転じ、ときに美しくかけがえのない瞬間を生み出す。音楽をとおしてプロやアマチュア、身体や言語の自由や不自由、おじさんや若者といった区別はなくなり、ひたすらに「いま・ここ」が肯定される。この映画はそんな断片を絶妙に切り出してみせている。

- 服部智行(映画『音の城♪音の海』監督)